「……別に。なんでもないよ」
高峰学園中等部3年の野上千里は、下校中のクラスメイト若井圭子の後を追いかけていた。圭子が早足で歩くので、追いかけていくのが大変だ。
「なんでもないことないでしょ。今日一日、ずっとしけた面してさぁ」
「なんでもないって」
「こんなときはさ、カラオケいこーよ、カラオケ」
「……いかない」
「じゃあさぁ、ゲーセンは?」
「……いかない」
「じゃ、ファミレス! あたし、おごるからさぁ」
「いかないってば!」
圭子は千里を振り返り、声を荒らげた。二人の間に気まずい沈黙が流れる。
千里が気遣ってくれるのは嬉しいし、確かに気分転換して嫌なことを忘れるのもいいことなんだろうと思う。それでも、今はそんなことをする気が起きないのも事実だし、周囲との関わりを遮断して独りになりたいと思っていることも事実なのだ。
一晩落ち込めば、明日にはきっと元気になるだろう。明日からは普通にできる。千里にはあしたちゃんと謝ろう。
だから、今日だけはそっとしておいて欲しい。今は独りにしておいて欲しい。圭子はそう思っていた。
「ごめん、千里。でも今日だけは……」
そう言って走り去ろうとする圭子の手を、しかし千里はしっかりと握って引き止める。
「じゃあ、家に来て。それならいいでしょ」
「ちょっと……」
千里は圭子の手を引き、強引に自分の家へと引っ張っていった。
強引に千里の部屋に連れてこられたものの、圭子はそわそわと落ち着かない様子でクッションの上に座っていた。小さい頃は千里の家によく遊びに来ていたが、久しぶりに訪れた千里の部屋は、カーテンやカーペットの柄、机やベッドのレイアウトなどが変わっていて、まるで知らない部屋のようだった。出されたオレンジジュースに手を出すのもなんだかためらわれる。
やっぱり帰ろう。
圭子がそう切り出そうとしたとき、千里は押入れの奥から大きな段ボール箱を引っ張り出してきた。そして箱の中を引っ掻き回し、カラフルなサテン地の布を取り出す。
「これこれ。これに着替えて」
「?」
「いいから」
圭子がそれを広げてみると、どうやらピエロの衣装のようだ。
「なによ、これ」
「いいから、ね。あ、制服はとりあえずそのままでいいや」
千里は圭子の頭から、無理やりその衣装を被せた。圭子もその勢いに押され、つい袖を通してしまう。
「あと、これもね」
ぽん、ぽんと、圭子の頭に緑色のアフロヘアと帽子を乗せる。
「圭子、どう?」
千里は圭子の前に鏡をかざす。

鏡に映る自分の姿は、まるでバカみたいに見えた。なんであたしはこんな格好をしているのだろうか。
「どうって、……なんなのよ、こんな格好させて」
「楽しくなった?」
圭子は改めて自分の姿を見る。ピエロの扮装。滑稽な衣装。こんな姿を見たら、きっとみんな笑うだろう。
でも、今のあたしはそんな気になれない。圭子はすっと立ち上がると、帽子を取った。
「もういい? あたし、帰るから」
しかし衣装を脱ぎ捨てようとする圭子を千里が押し止めた。
「まだよ。次はメイクね」
「メイク?」
千里は小さな瓶の蓋を開けると、スポンジを使って瓶の中に入っている白いペースト状のものを掬い取る。
それを見て、圭子の背中に冷たい汗が一筋流れる。
ひょっとして、それをあたしの顔に塗るの?
ステレオタイプなピエロの顔が、圭子の脳裏に広がる。白塗りに、色とりどりの模様が描かれた道化師。
嫌だ、そんなの!
「ちょっと、やめてよ。やだよ、そんなの……」
「いいから、動かないでってば」
逃げ出そうとする圭子を捕まえると、その頬に手を伸ばし、千里は一筋の白いラインを走らせる。
「!」
ぬるりとした冷たい感触に、思わず頬に手をやる圭子。その指には白いドーランが付着している。
「……いや、これ……」
「ほら、諦めなさい」
「やだ! 早くこれ、落としてよ」
泣きそうになりながら、圭子はその場にへたり込んだ。
「メイクが完成したら、ね」
少しおとなしくなった圭子の顔に、千里はどんどんと白を塗り重ねていった。スポンジのひと塗りひと塗りが、冴えなかった圭子の表情を覆い隠していく。
圭子はもう逆らう気力もなく、諦めにも似た心境で千里に全てを委ねていた。
「これでよし、っと」
赤い顔料を含ませた筆を圭子の唇から離し、千里はふうと一息ついた。
「ほら、鏡、見てごらん」

なに、これ。
鏡の中にいるのは、一人のピエロ。しかし圭子が顔を歪めると、ピエロもそれに合わせて顔を歪める。俄かには信じ難かったが、紛れもなくそれは圭子自身なのだ。
圭子は言葉を失い、しばらくは自身の姿をただぼんやりと眺めているのがせいぜいだった。
違うよ。こんなのあたしじゃないよ。
そう思いながらも、鏡の中の圭子はペインティングに彩られて楽しそうに、にこやかに圭子自身を見つめているのだ。
「ほら圭子、笑顔になった」
「それは、メイクが……」
「いいのよ、それでも。今はその顔が圭子の顔なんだから」
あたしの顔。確かに楽しそうだ。全然楽しくなんかないのに。
「楽しい?」
「いや……」
「なに言ってるのよ、こんな顔しててさ」
鏡の中の圭子は、確かに笑っている。ピエロのように、まるで小さな子供をあやすかのように、おどけてみせることで圭子を元気付けているかのようだった。
そんなピエロを見て、圭子は少しはにかんで、笑みを浮かべた。圭子の顔に張り付いたピエロも、それに伴って笑顔をより輝かせたように見えた。
変なの。あたし、あたしに励まされてる。
圭子は胸の奥にこびりついていたしこりが、ひとつ、すとんと落ちたような気がした。
ちら、と千里を見ると、千里も笑顔を浮かべている。
「あたしは楽しかったよ」
それはそうだろう。千里はあたしをおもちゃにして、好き勝手やったんだから。
あたしは……、楽しかった、のかな?
再び鏡を見やる圭子。ピエロの顔に、今度はごく自然に、クスリと笑みがこぼれた。
「千里」
「ん?」
どうせ明日には立ち直れたんだから、こんなことしてくれなくても良かったのに。圭子は心の中でそうつぶやいた。だいたい、あたしをピエロにするなんてどこからそんな発想がでてきたのよ。普通じゃない、どうかしている、非常識だ。
でもあたしは、独りでいるよりも半日だけ早く元気になれた。大きなお世話だったけど、千里には半日分の元気をもらったようなものなんだ。
「……ありがと……」
圭子はようやくその言葉を搾り出すと、無理やりひきつった様な笑顔を作った。
「プッ……」
その顔に思わず噴出してしまう千里。
「ちょっと、笑わないでよ!」
圭子は千里に文句を言いながらも、今日初めて、心からの笑顔を浮かべていた。
千里「よし、じゃあプリクラ撮りに行こう!」
圭子「えー、やだよー」
千里「なんで? いいじゃん」
圭子「うーん。千里もピエロになるんなら、行ってもいいよ」
千里「……やっちゃおうかな」
圭子「……マジで?」
(おしまい)
昔、シンキングラビットという会社から、「道化師殺人事件」というアドベンチャーゲームが発売されていました。ゲーム自体はプレイしたことはないので内容はよく知らないのですが、パソコン誌に掲載されていた「道化師殺人事件」の広告イラストがとても印象的でした。それはパッケージイラストだったと思うのですが、ちょっと悲しそうというか、なにか含みがあるような微妙な表情をしたピエロの男の絵が描かれていたのです。それを見たとき、メッシー的な興味が一番大きかったのは確かなんですけど、男の素の感情などお構いなしに笑顔を振り撒くピエロメイクの力というものに、強い衝撃を受けたことを憶えています。
で、ちょっとググってみたんですけど、「道化師殺人事件」はプレステでリバイバルされていたこともあり、その画像は割と簡単にみつかりました。久しぶりに見てみたのですが、実はそんなにきついメイクではないということが判明してちょっと拍子抜けしてます。まあ、男の表情がわかるくらいなんだから当然と言えば当然なんですけど。
BGM:谷山浩子『ピエレット』
【関連する記事】