夏休みも終わりに近い8月30日の昼下がり。上島みのりが汗をだらだらと流しながら、幼馴染みの田之上義雄の家に転がり込んできた。
「何? まだ終わってないの?」
「あと残っているのは、読書感想文と、絵と、自由研究」
「また随分と大物が残っているな……」
「だって、何やればいいのかわかんないんだもん」
「でも、夏休みもあと2日でしょ? 間に合うの?」
「自由研究の発表会は来週だから、それは週末にやればいいと思うのよ。だから1日に出さなきゃいけない読書感想文と絵だけは、とにかく今日と明日でやっちゃわないと」
「じゃあやればいいじゃん」
「だから手伝って欲しいんだってば。ヨシオはもう全部終わっているんでしょ?」
「まあ、終わっているけどさ……」
「やっぱり頼りになるわぁ。じゃ、おジャ魔しまーす」
そう言うとみのりは靴を脱ぎ、トントンと義雄の部屋へと続く階段を駆け上がっていった。
「で、読書感想文を書くためには読書をしなくちゃいけないんだけど、何を読むか決めたの?」
義雄が盆にコップと麦茶の瓶を乗せて部屋に入ってくる。暑さも一時期に比べれば随分収まってきたが、
「読むのはもう読んだのよ」
「何を読んだの?」
「『変身』」
「『変身』? カフカの?」
「うん。短かったから」
みのりはコップの麦茶を一気に飲み干し、また新しい麦茶を自らコップに注ぐ。
「また変なのを選んじゃったね。で、どうだった?」
「よくわかんない」
「わかんないって……」
2杯目の麦茶も3/4ほど飲み、みのりはようやく一息ついた。
「だって、全然意味わかんないんだもん。ヨシオ、あれ、読んだことある?」
「一応あるよ」
「じゃあわかるでしょ? あれで読書感想文なんて書けないって!」
「ま、難しいとは思うけどね」
「だから、手伝って」
「手伝ってと言われても……」
義雄は少し頭をめぐらす。
実際、『変身』で感想文を書くのは難しいだろう。普段から読書量のある人ならともかく、国語の教科書程度しかお話を読まないみのりにとっては、カフカが何を思ってあれを書いたのかなど理解できるとは思えない。
「僕からアドバイスするとすれば、改めて別の本を読むのがいいんじゃないかな」
しかし義雄のその意見にはみのりが難色を示す。
「えー? やだよ、めんどくさい。『変身』だって読むのに飛ばし飛ばしでも30分かかったんだよ? いまさら他の本なんて。時間もないし、無理やりでもいいから『変身』で書くの!」
感想文を書けないのは飛ばし読みをしていたからじゃないのかという意見を、義雄はなんとか飲み込んだ。
「タイトルだけはもう書いてあるのよ」
みのりの原稿用紙の第1行目には、「『変身』を読んで」と記入されている。1行空けてみのりの名前が、さらに1行空けて「私はフランツ・カフカの『変身』を読みました」とだけ書かれていた。
「ヨシオは『変身』について、どう思ったの?」
「あんまり憶えてない」
「本当に読んだの?」
「読んだよ。でも、変な話だなぁって、まあそれくらいで……」
「もう、しっかり読みなさいよ」
「別によくわからなくてもいいじゃない。よくわかりませんでしたって、感想に書けば」
「それじゃあ格好つかないでしょ」
「わがままだなぁ。適当に日本語が書いてあればそれでいいだろ」
「そうもいかないの!」
みのりは麦茶の残りを飲み干し、3杯目を注ぐ。
「ね、なんかいい方法、ない?」
「いい方法と言われても……。定番としては、主人公の気持ちをおもんばかって、かわいそうだったとか、どうとか」
「かわいそうと言えばかわいそうかな」
「結局そのまま死んじゃうわけだしね」
「そうだっけ?」
「……本当に読んだの?」
「最後って、なんかハッピーエンドっぽかったような気がしたんだけど」
「そりゃ家族の方だ。主人公は死んだはずだよ」
「なんで主人公が死んだのに、家族はハッピーなの?」
「厄介者がいなくなったからでしょ」
「えー、酷い! 家族でしょ?」
「そう思ったのなら、その憤りを感想文に書きなよ」
「でもその辺りってあんまり憶えてないのよねぇ」
「どこなら憶えているの?」
「主人公が毒虫になった辺り」
「じゃあ、その辺の主人公のことを書きなよ」
「でもさぁ、いきなり毒虫に変身した気持ちなんて、わかるわけないじゃない」
「どうせフィクションなんだから、その辺は想像で補えば?」
「わかんないわよ、毒虫の気持ちなんて」
結局みのりには感想文を書く気があるのかないのか。義雄にはそのレベルから不安になってきた。
「……そうだなぁ。わかんないなら、実際に体験してみようか」
「体験?」
ゆっくりと立ち上がった義雄を、みのりはぽかんと見上げていた。
義雄は棚の上から小さな箱を取り出した。その箱の中には何包かの包みがしまわれている。その中のひとつを摘み上げると、義雄は中に入っていた粉末をみのりの麦茶の中に入れた。
「掻き回すのがないなぁ。ま、いいか」
コップを持って軽く振っただけだったが、粉末は冷たい麦茶にも溶け込んだようだった。
「これ、飲んでみて」
「何なの、これ」
いぶかしみながらも、義雄に言われるままにみのりは薬の入った麦茶を飲む。
「実はね、この間父さんが南米のどこだったかに行ったときに、お土産にいろいろなものに変身できる薬を買ってきてくれたんだよ。君がいま飲んだのは毒虫に変身する薬で……」
それを聞いてみのりはゲホゲホと咳き込む。しかしコップの中の麦茶は、既に半分くらいは飲み込んでしまっている。
「ちょっと! 何よ、それ!」
毒虫に変身? あたしが? 冗談じゃない!
「まあまあ、そう慌てなさんな」
「慌てるわよ! 嫌だよ、そんな、毒虫になるなんて!」
「でも、感想文を書かなきゃ」
「だからってそういうことする? 鬼! ひとでなし!」
「そう怒るなよ。君のためなんだから」
「あたしのためって……んあっ」
首筋に違和感を覚え、みのりは思わず声をあげる。おそるおそる触れてみると、そこには硬い甲殻が出現していた。
「どうやら始まったみたいだね」
今度は首筋を改めていた、その腕が小さく縮む番だった。それと同時に足も縮んでいく。さらには胴体が長く伸びてしまったためにバランスを崩し、みのりはうつぶせに倒れ込んでしまった。
一方、腹部からは縮んだ手足とは対照的に無数の足が生えてきて、それらが内側からTシャツを不気味な形に押し広げる。
「ヤダ……。ちょっと、なんとかしてよ!」
「なんとかと言われてもね。もうどうしようもないよ」
変化していく自らの身体を目の当たりにして、みのりは不安を覚える。読書感想文のことなど、既に頭の中には存在しない。
「大丈夫だよ。効果は大体1日くらいで切れるらしいから」
「らしいって何よ」
「いや、僕は読めないんだけど、箱にそう書いてあるみたいだよ。父さんが言ってた」
箱を見せられても、そこには英語ですらないどこかの見知らぬ言語が並んでいて、みのりにだって読むことなどできない。
そうこうするうちにも、みのりの身体の変化は着々と進行している。
「服脱がないと、破れちゃうよ」
太くなってしまった首周りが、Tシャツの襟首を大きく広げている。
「そんなこと言われても!」
「そっか、ゴメン。僕がいたら脱ぎにくいか。ちょっと外に出てるね。終わったら呼んでよ」
「いや、て言うか……。あ、ちょっと待ってよ!」
部屋を出て行く義雄の後姿にすがりつこうとするが、みのりの目の前で無情に扉は閉められてしまった。
みのりにしてみれば一人にされる不安感もあるのだが、張り裂けそうなTシャツを見れば早く脱いでしまわなくてはならないのも確かだ。腕は短くなってしまったが、代わりに腹部には新たな足が何本も生えてきている。それらを駆使すればどうにかTシャツを脱ぐことはできそうだ。
「しかしこれ、ブラは脱げないかも……」
みのりは何とかTシャツを脱ぎ捨てるが、襟首は無様に伸びてしまっていて、もう着ることはできなさそうだ。
次にみのりはキュロットに注意を向ける。キュロットはみのりのウエストだった場所に深く食い込んでしまっている。このまま放っておけば、キュロットが引き裂かれるか、みのりの身体が破れてしまうか二つにひとつだ。今のところ痛みはないが、材質を考えれば、みのりの身体の方が弱いかもしれない。
みのりは焦りながらも、わずかに残った指を使って、どうにかキュロットのボタンを外す。そのまま脱いでしまうことはできそうになかったので、床に身体をこすりつけて、ようやくキュロットを身体から引き剥がした。
ビリ。
「あ」
そのとき、脱衣が間に合わなくてついにショーツが破れてしまった。ブラはまだ残っているが、ひとりで外すことはもうできない。
みのりの背中の甲殻はさらに勢いを増して盛り上がり、最後に残っていたブラの紐も断ち切ってしまった。
「帰るときはノーパン、ノーブラかぁ。嫌だなぁ。まあそれも、人間の姿で帰ることができればの話なんだけど」
半ば諦めたようにみのりは身体の変化に身を委ねていた。異常事態に接しながらでも、人は案外冷静な面も持ち合わせているものだということを、みのりは知った。
30分後。義雄の部屋には一匹の巨大な毒虫が横たわっていた。薬を半分しか飲まなかった影響からか、その毒虫はところどころにみのりだった頃の面影を残していた。
「そろそろ終わった?」
義雄がリンゴを手にして部屋に入ってきた。それに気付いた毒虫は、恥ずかしそうに机の下へと潜り込んだ。

『変身』を読んで
2年D組 上島 みのり
私はフランツ・カフカの『変身』を読みま
した。
主人公のグレゴール・ザムザは、ある朝突
然毒虫に変身してしまうのですが、毒虫にな
ると人間のように身体を動かすことができず、
思うように動けなくて大変でした。
だけど、壁や天井をつたって歩くのは面白
かったです。人間に戻った今でも、壁づたい
に歩きたくなってしまいます。
とても面白かったです。
「これ、『変身』の感想文じゃなくて、毒虫に変身したことについての感想文だよなぁ」
翌、8月31日。義雄はみのりが書いてきた空白の多い読書感想文を査読しながら、そう思った。
みのりの背にはまだ少しだけ甲殻の名残があるが、おおよそは元の姿に戻れたようだ。
え? リンゴ? もちろん、二人でおいしくいただきましたよ。
(「夏休みの絵」に続く)
私も昔は作文が大の苦手でして、原稿用紙が半分も埋まれば上等なくらいでした(もちろん、タイトルと名前、名前と本文の間は1行空いているので、本文は実質20文字×6行分なわけですが)。改行位置を工夫して、なるべく行数を稼ぐという小細工なんかも駆使したりしてましたね。「感想文なんて『面白かったです』だけでいいじゃん」とか、素で思っていましたし。今なら原稿用紙1枚って、とても少なく感じるんですけどね。
それで、中学生のときに、「短いから」という理由で宮沢賢治の「注文の多い料理店」を感想文用の本として選択したことがあるのですが、あまりにも変な内容で感想の書きようがなく、途方に暮れた思い出があります。結局、急遽「風の又三郎」に方向転換して、本文は大して読まずに巻末の解説を自分語に翻訳しながら原稿用紙に書き写したわけですが。
そういえば、もうじき二百十日ですなぁ。
どっどど どどうど どどうど どどう。
来年の夏休みまでにはなんとか……。