宏子の用意したその怪しげな品物を前にして、私は少ししり込みをする。
「ウチのお母さんも、若い頃にこれで修行したらしいよ」
こんなものにはたして効果があるのかどうか、にわかに信じることはできないが、今の私はワラをも掴みたい一心で、とにかく試してみることにしたのだ。
それは頭のてっぺんからつま先まで、全身を完全に覆ってしまうボディスーツだった。赤とシルバーの派手なツートンカラーで、その顔は確かに母親っぽい穏やかな表情をしている。
私は背中のファスナーをあけ、そのスーツに恐る恐る足を入れる。中古だからか、スーツの内部がなんとなく湿っているような気がして、ちょっと気持ち悪い。私はそのままスーツの中に両足を入れ、両腕も通した。
そして肩の位置を確認してから、マスクを被る。マスクの外側はプラスチックか何かの硬質な素材だったけれど、内側はスポンジ状の柔らかい素材でできている。顔をマスクの中に埋めると、スポンジが汗を吸っているためか酸っぱい匂いがしたけれど、何度か深呼吸しているうちに気にならなくなってきた。
それより、今は大丈夫だけれど、完全にスーツを装着してしまうと呼吸が苦しくなってしまわないか心配だ。それから覗き穴がとても小さく、周りが見えづらそうな点も気になる。
「いい? 閉めるよ」
宏子がスーツの背中についているファスナーのつまみを上げていく。ジジジ……という何とも言えない感覚が、私の背中を這い上がっていく。
ファスナーが後頭部まで引き上げられた。ファスナーがずり落ちてしまわないように、つまみを頭部にあるフックに引っ掛けて固定する。その仕掛けは細かすぎて、スーツの手袋に包まれた私の指では外すことはできない。
私は完全に、スーツの中に密閉されてしまったのだ。
中学の入学式のときだった。私・秋村のり子がどこへ行ったらよいのかわからずに中学校の入り口付近でうろうろしていたとき、教室への道順を教えてくれたのが片瀬先輩だった。片瀬先輩はとても優しく、とてもかっこよかった。いわゆる一目ぼれだった。
恋愛なんてしたことがない私は、片瀬先輩に話しかけることすらできずに、それからの日々をただ片瀬先輩を影から見守ることだけに費やしてしまった。視界の隅にはちらほらと映っているはずだけれど、片瀬先輩に私のことを認識してもらえているかのかどうか、それさえもよくわからなかった。
しかし時間はあっという間に経過する。それから1年半が経過し、私は2年生となった。ひとつ上の片瀬先輩は3年生で、今年度で卒業してしまう。
情報通の友達・石貫宏子にこっそり入手してもらった情報によると、片瀬先輩が志望する高校はかなりレベルが高いところで、私が後を追いかけていくのはちょっと厳しそうだった。つまり、私が片瀬先輩に告白するならば、片瀬先輩が在学しているあと数ヶ月の間が勝負ということになるのだ。
そんな状況なのに、私が先輩への告白をためらうのには理由がある。これは宏子から教えてもらったことでもあるし、私自身の観察の結果から裏付けられてもいることでもあるので、本音を言えば信じたくはないのだけれど、まあ十中八九事実だろうと思われる事柄だ。
片瀬先輩は、マザコンなのだ。
別に片瀬先輩がお母さん以外の女性に見向きもしないということはないと思う。しかしそれでも年上のしっかりとした人で、甘えさせてくれる、守ってくれる、頼りになる、そんな女性がタイプなのは間違いないところだ。
ところが一方の私はそんな片瀬先輩のタイプとは正反対のところにいる。ちんちくりんの幼児体型で、自分でこういうことを言うのもなんなのだが、どちらかと言えば甘えたい、守ってもらいたい、頼りたいという妹タイプなのだ。いくらなんでも方向性が違いすぎる。
「どうしよう、どうしよう。絶対無理だよー」
私は毎日、頭を抱えながら転げまわっていた。今までは遠くから見守るだけでもなんとなく満足できていたのだけれど、現実として別れのときが目前に迫ってみると、私の胸は張り裂けそうになった。別れるなんて絶対に嫌だ。もっと先輩と一緒にいたい。片瀬先輩と手をつないで、デートして、キスをして、それから、それから……。
しかしそんなはちきれんばかりの熱情とは裏腹に、未成熟な自分の身体を見るたびに、私の意気は消沈していった。私の胸は周りの友達と比較しても明らかに小さい。そのことを思い出すたびに気持ちも暗く沈んでいき、どんよりとした黒いオーラを発散させていた。
その頃の私は躁と鬱を繰り返して、そうとうヤバい状態に見えたに違いない。そんな私に救いの手を差し伸べてくれたのが宏子だった。そして宏子のその手には、母親養成ギプスがあった。
ファスナーが完全に閉じられた後、改めてマスクの位置を微調整して視界を確保する。私の顔とマスクの形状が完全に合致していないために目と覗き穴とが上手く合わず、真正面を見るためには少しあごを上げて下目気味にしなくてはならない。まあしかし、足元を見ることはできるのでそれほど支障はないだろう。
口のところに穴は開いていなかったと思うが、どこかで外にはつながっているようで、一応呼吸はできる。しかし現時点でも、口に入ってくるのはよどんで湿った不健康そうな空気だ。あまり長時間着ていると、酸欠になってしまうかもしれない。
スーツのサイズは大体私の身体に合っているみたいだ。おなかの辺りが少しきついけれど、耐えられないほどではない。それよりも、胸の辺りが少しだぶついているのがちょっと気になる。やっぱり私の胸は、標準よりも小さいのか……。
指を開閉したり、腕を上げ下げしたり、膝の屈伸をしてみたりしてみて、動きやすさの確認をする。ところどころつっぱるような気がするけれど、スーツは身体にうまくフィットしていて動作に問題はなさそうだ。しかし、いかんせん古いものらしいので、オーバーなアクションをしたりすると破けてしまいそうでちょっと怖い。
「ほら、見てごらん」
宏子が鏡台の覆いをめくり上げて私を呼ぶ。私はもう一度覗き穴を微調整しながら、足元に注意して、ゆっくりと鏡台の前に移動した。そしてすっとあごを上げて鏡を見る。
!
私は鏡に映った自分の姿を見て息を呑んだ。ぴたっとしたスーツは、私の幼いボディラインをくっきりと表していたし、だぶついたような胸の布地は、却って幼児体型を強調していた。それでも鏡の中にいたのは、紛れもなく優しい微笑をたたえた母親の姿だったのだ。
私はしばらくの間、その姿に見惚れていた。

「日本人は形から入る。あんたもそれを着て特訓すれば、必ずいい母親になる。そうすれば、片瀬先輩だってきっとあんたを好きになる。OK?」
母親になる。
宏子の言葉を聞いて、私はつばを飲み込んだ。
それは中学生の私にとっては、まるで実感がわかない。それでも胸の奥でとくりとくりと何かが蠢くものを感じるというのは、やはり私が女だからなのだろうか。
私は自分のおなかにそっと手をやった。普段の感触とは異なり、手袋とスーツ越しに触れているためか、まるで私が身ごもっているかのような錯覚に襲われた。
「のり子? 聞いてる?」
宏子の声で私は我に返った。私と片瀬先輩との間の子という居もしない架空の胎児に、妄想の世界で愛情を注いでいた自分が急に恥ずかしくなった。
「よし。それじゃ、これから母親になるための特訓を始めるよ」
宏子が丸めたノートを持って、手のひらをパンパンと叩く。その古びたノートはどうやら、宏子のお母さんが母親の特訓をしたときに、母親のなんたるかを記したものらしい。そのノートに従えば、私もきっと立派な母親になれるに違いない。
宏子はおもむろにノートの表紙をめくり、朗々とノートの内容を読み上げ始めた。
「そもそも母親とは、子供を生んだから母親になるわけじゃなくて、子供を育てながら母親になるのだと、どこかのアニメでも言っている。すなわち母親とは、妊娠・出産・授乳といった肉体的・物質的な側面よりも、慈愛・忍耐・包容力といった経験的・精神的な面こそが重要であると言える。このことは……」
……しかし、暑い……。
正座をして宏子の訓話をじっと聞きながら、私はスーツの中でだらだらと大量の汗を流していた。
このことはスーツを着込んですぐに気付いていたのだが、このスーツは非常に通気性が悪く、ただ座っているだけでも汗が噴き出してくる。しかもその湿気はスーツの内側にこもり、乾くこともなく全身を濡らし続けているのだ。
呼気も次第に濁ってきて、脳へも酸素が回らなくなり、私はだんだんぼんやりとしてきた。
「よし、第1章はここまで。続いて立ち方の練習に移ろう」
私はその言葉のほとんどを適当に聞き流していたのだが、ようやく母親の何たるかという長い訓話がようやく終了して、次は実技訓練に入るようだ。
「昔から、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』と言って……」
しかしながら、今度は美しい立ち方とはというテーマで、また長い話が始まってしまった。
それもこれも、全ては私を勇気付けるために宏子がやってくれていることなのだ。そう思うと涙が出そうになる。しかし鼻筋に溜まる汗を拭おうとしても硬いマスクに阻まれて叶わないというのがまた辛い。
「……と、こういうわけ。じゃ、立って」
終わったのだろうか。今度こそようやく実技だ。
私は宏子の指示通り正座の状態からすっと立ちあがった。足がじんじんと痺れていたが、私は母親としての気合で必死にこらえた。
だが、宏子の指導は厳しかった。
「もっと奥ゆかしく!」
へ? 奥ゆかしく? それって、どういうこと?
「繰り返すけど、母親とは……」
宏子の言葉を必死で追いかけようとするのだが、頭の方が全然ついてきてくれない。
立ったり、座ったり。立ったり、座ったり。
私はとにかく、宏子の号令に従ってひたすら立ち方の練習を繰り返した。
練習を開始してから、いったいどれくらいの時間が経過していたのか、それすら私にはわからなかった。
……いけない。
何度目かの起立のとき、私は立ちくらみのような状態となり、大きく状態がゆらいだ。
「ちょっと、のり子!?」
宏子が私に声をかける。
私は頭を振りながら、なんとか再び立ち上がった。
「大丈夫? ちょっと休憩しようか?」
宏子が何か言っているが、もうそれは意味を持たない音の羅列としてしか私の耳には入ってこない。
私はこの地獄のような環境に耐え切れずに、スーツを脱ぐために後頭部をまさぐった。しかし何かファスナーのつまみらしきものの感触はあったのだが、手袋越しではそれを掴むことができない。そのことでなおさらに気ばかりが焦り、ついには背びれ状の部分を掴んで乱暴に引っ張ろうとしたのだが、指から力が抜け、がくりと腕が落ちた。
「のり子、のり子!?」
遠くから宏子の声が聞こえる。
目の前が真っ白になり、気が遠くなる。宏子の声を守唄代わりにして、私はその場に崩れ落ちた。
気が付くと、私は宏子のベッドの上で横になっていた。額の上の濡れタオルが気持ちいい。
少しずつ記憶が戻ってくる。そうだ、私、特訓してて倒れちゃったんだ。母親養成ギプスを着ていたときのことを思い返しながら、私は大きくため息をついた。こんなことで倒れているようじゃ、まだまだ母親失格だなぁ……。
ふと横を見ると、宏子が心配そうに私を見つめていた。
「のり子。大丈夫?」
私が目を醒ましたことに気が付いて、宏子はしょぼくれたような声を出した。私が倒れたことに責任を感じているのだろう。肩を落とし、背を丸めて、いつもの宏子と比べてあまりにも元気がない。
意識はなかったと思うのだが、私の身体には宏子に抱きかかえられた感覚が残っているような気がした。今は布団にくるまれているが、まるでまだ宏子に抱かれているような感じもする。私は安心して、肩の力を抜き、目を閉じて布団に身を沈めた。
私、やっぱりまだまだ子供なんだな。
確かに宏子のせいで酷い目にはあったけど、宏子は私のために全力で叱咤してくれて、全力で協力してくれて、そして全力で心配してくれたのだ。それも全ては、私が宏子がいなかったら何もできない、ただの無力な子供だったからだ。
同時に私には、それだけ私のために骨を折ってくれる宏子が、まるで母親のように思われた。
椅子から腰をうかして枕元に近づいてきた宏子に向って、私は「お母さん」とつぶやいた。
宏子は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になって、私の頭を軽く小突いた。
少し経ってから、私はゆっくりと上体を起こした。
「ちょっと、無理しないでよ」
宏子はまだ私を横にしておこうとしたのだが、私はその宏子の肩を借りて無理やり立ち上がった。まだ多少ふらつくが、別にどうということもなさそうだ。
私はゆっくりと、慎重に宏子の手から離れた。
母の優しさ、厳しさ、強さ。更にはしとやかさ、たおやかさなど、諸々の母親のイメージを抱きながら、私は背筋を伸ばして凛として立った。
宏子が傍でしっかりと見守ってくれている。この友情に応えないわけにはいかない。
私は明日、片瀬先輩に告白しようと決意した。
(おしまい)
実はこの話はイラストが先にあって、おはなしは後付けで書いています。そのため、話の展開に無理が出てしまったような気がします。実はこの話の前にも、このイラスト用に書いたものの内容がイラストと乖離しすぎてしまったので没にした話が1本ありまして、近いうちにそちらも別な形で完成できればと思います。
作中に出てくる、『子供を生んだから母親になるわけじゃなくて、子供を育てながら母親になる』とは、おジャ魔女どれみ♯第2話「赤ちゃん育ては、も〜たいへん!」で、どれみの母親のはるかさんが言う台詞の意訳です。♯はハナちゃんを育てるというのがメインストーリーとして存在している関係で、2話の他にも4話、15話、40話など家族関連の好エピソードが多いです。
【関連する記事】
今の時代、なおの事このアイテムと回りの人達の存在が必須かもですね…(しみじみ)
絵を描くにしても話を書くにしても、もう少し考えないといけませんね。