(意味)
昔、ジェシカという路上パフォーマーがいた。ジェシカは天使の着ぐるみを着てダンスを披露するという芸を持ちネタにしていた。華やかに空を舞う鳥のように、しなやかに湖水に泳ぐ魚のように、ひそやかにたなびく柳の枝のように。ジェシカの踊りは、まるで本物の天使のようだと、人々の評判になっていた。
しかしジェシカは、けして自分の踊りに満足してはいなかった。本物の天使はこんなものではない。もっと気高く、優雅に、美しく舞うに違いないのだと。そんな理想を追求するために、その晩もジェシカは、仕事から帰って夕食を取った後、寝るまでの時間を利用して、ひとり、踊りの練習をしていた。
天使の着ぐるみを着ながら、蓄音機から流れる音楽に合わせ、ジェシカは軽やかにステップを踏む。
トン、トトン、トン、トン。
トトン、トントン、トトン、トン。
ジェシカが着ている天使の着ぐるみは、ボディスーツとマスクから成っている。マスクは大きな丸い目と赤いくせ毛をもった、5歳くらいの愛らしい子供を模っていて、その表情はかすかな微笑を浮かべている。ボディスーツも同様に子供らしさを表現していて、成人であるジェシカを全体的に丸みを帯びた、手足の短い幼児体型へと変貌させている。背中には小さな白い羽根、そして腰には薄い緑色の巻きスカート。これがパフォーマンスをするときの、ジェシカの正装だった。
「ふぅ」
ひとしきり踊ったジェシカは、休憩のためにマスクを外すと、部屋の端に設えられている長椅子に腰を下ろした。脱いだばかりのマスクの内側は、ジェシカの汗によってぐっしょりと湿っていた。
「なんだい、その踊りは」
そのとき、どこからか不思議な声が聞こえてきた。まるで優しく奏でられた笛の音のような、かわいらしく澄んだ声だった。
ジェシカは辺りを見回してみるが、声の主はどこにも見えない。
「ここだよ」
声は頭の上の方から聞こえてくる。ジェシカが天井を見上げると、高い梁の上に小さな男の子が座っていた。
「まさか、それで天使のつもりなのかい? それじゃあまるで、足がもつれた酔っ払いじゃないか」
そう言うとその子はひょいと立ち上がり、梁の上から飛び降りた。
危ない!
ジェシカは慌てて立ち上がった。
しかしその子は落下するではなく、空中にふわりと浮かんだままジェシカを見下ろしていた。
その子の身体は淡い光に包まれていて、背中には白い羽根が広がっている。
ジェシカは信じられない思いでその子を見つめた。
「あなた……。天使、さん?」
その子――天使はゆっくりとジェシカに向って降下してきた。
「踊りを踊りたいのなら、そんな暑苦しいもの脱いじゃえばいいのに。踊るのには邪魔だろう?」
天使はジェシカのボディスーツをの腕をつまみ、軽く引っ張った。
「でも……、私は天使の踊りを表現したいから」
ジェシカは反対の腕でつままれた腕を抱きしめると、少しむっとしたように答えた。
確かに、天使のマスクはジェシカの視界や聴覚を遮る。分厚いボディスーツはジェシカの動きを阻害し、スーツの重さが体力も奪う。外気を遮断することによって身体を冷却することもできない。踊ることに関して言えば邪魔ものでしかない衣装だが、ジェシカの追及する“天使の踊り”を実現するために、欠くことのできない衣装だ。その衣装を否定されたことは、ジェシカ自身を否定されたように感じられたのだ。
しかし天使はおかしそうにクスクスと笑うと、愛しそうにジェシカに微笑みかけた。
「キミは純粋なんだね。天使にとって大切なのは、キミのような純粋な心なんだよ」
天使は右腕を高々と差し上げると、パチリと指を鳴らした。
すると不思議なことに、ジェシカが着ていたボディスーツのファスナーが音を立てて、後頭部からうなじ、背中、腰と、ひとりでに下がっていった。
「さあ、いいから脱ぎ捨てちゃいなよ」
腕といい、脚といい、ボディスーツ全体がうねるように震えだした。まるでボディスーツが意思を持っているかのように、ジェシカを外へと排出しようとしているのだ。ジェシカはその動きに抗えず、為す術もなく背中の切れ目から押し出されていった。まるでサナギから羽化する蝶のように、ジェシカは着ぐるみから脱皮した。
火照った身体が冷たい外気に晒されて恍然とした感覚に襲われたのも束の間、ジェシカは自分の身体に起こった変化に気が付き、驚きのあまり言葉を失ってしまった。
「これは……」
ボディスーツから出てきたジェシカの肌はまるで生まれたばかりの赤ん坊のようにつるつるとした潤いを持ち、その四肢は子供のように短く、丸くなっていた。さらにその背中には、純白の羽毛を持った、二枚の羽根が生えていたのだ。
ジェシカは天使の着ぐるみを脱ぎ捨てて、天使に生まれ変わったのだ。
「さあ、一緒に踊ろう」
天使はジェシカに向って、そっと手を差し伸べた。
ジェシカも天使の手をとり、大きく羽根を広げて、共に宙に舞った。
蓄音機からはブラスバンドの軽快な演奏が流れてくる。昼間、路上で踊ったときにも使用した曲だ。
あのときは脚の上げ方が足りなかった。ジャンプしたときの高さが、回転数が足りなかった。私は全然天使になんてなりきれていなかった。でも今は違う!
厚く重い着ぐるみから解き放たれたジェシカは、存分に身体を伸ばして大きく跳ねた。つま先でくるくる回りながら大きく身体を反らした。逆立ちしながら脚を開き、横に跳んで連続的に側転した。
身体が、軽い。くるりくるりと、自分が思うままに身体を巡らせることができる。走り出すときの加速が違う。身体のしなやかさが違う。空中でのバランス感覚が違う。頭の中にあった理想の踊りを、この身体なら100%実現することができるのだ。
ジェシカは夢中で踊り続けた。気が付くと、曲はもう最終盤に差し掛かっていた。少し名残り惜しくもあったが、ジェシカは曲の終わりに合わせてゆっくりと静かに着地して、大きく息を吐き出した。天使として踊りきった満足感が、じわじわと押し寄せてきた。
ジェシカに続いて、手を叩きながら天使も舞い降りてきた。
「すごいね、君。天使の中にも、これほど踊ることができるのは、そうはいないと思うよ」
「ありがとう。あなたのおかげで、本物の天使の踊りがどういうものか、体験することができたわ」
天使の拍手に対して、ジェシカは深々と一礼して応えた。
そして、ジェシカは部屋の隅に投げられていた着ぐるみを手に取った。
「これで次からは、着ぐるみを着ながらでも、もっと上手に踊れるような気がするわ。ねえ、天使さん。元の姿に戻してくれないかしら?」
そのジェシカの言葉を聞いて、天使は驚いたように訊ねた。
「どうして? キミは天使になったんだよ。もうそんなものを着て踊る必要はないじゃないか」
しかしジェシカは、困ったような笑みを浮かべた。
「私は別に天使になりたかったわけじゃない。天使を演じたかったの。人として天使の踊りを踊れなければ、意味が無いのよ」
天使はあっけに取られたまま指を鳴らした。するとジェシカの背から羽根が消え失せた。身体も細くしなやかに伸びていった。ジェシカは以前のジェシカの姿へと戻っていった。それと同時に、天使の姿もいずこかへと消え去ってしまった。
ジェシカは自分の身体を改めると、天使のボディスーツに脚を通した。汗が冷えて少しひんやりとした感触が全身を包む。身体をスーツに馴染ませるために各部位を軽く曲げ伸ばししてみる。分厚いスーツに阻まれて関節を完全に曲げきることができない。それを着ているだけで、身体に多大な負担がかかってくる。天使であったときの身体の軽やかさと比べれば、まるで泥の中を泳いでいるようだった。
マスクをかぶって、ジェシカは再び天使へと変身した。
部屋の端に移動すると、少し助走をとり、強く床を蹴って空中に飛び、2回転してから着地する。
そのジャンプは、本物の天使の飛翔と比べれば、重く、遅く、そして不格好だった。とても比較するべくもなかった。それでもジェシカは、昼間より少しだけ高く宙に舞い、少しだけ早く回転することができた。ジェシカの身体には、天使として踊った感覚がはっきりと刻み込まれていたのだ。
きっと明日はもっと上手く踊ることができる。ジェシカはそんな予感を胸に抱きながら、また練習に没頭していった。
転じて、偽者は本物になることはできませんよ、ということ。

天使(キャラクタ)になりたいわけじゃない。
人の身のままで演じるからこそ価値がある。
アタシは役者になりたいな。
周囲の人に夢を与える、アタシは役者になりたいです。
本物の天使にはなれなかったけど、「偽物」だからできる事もある。
それを得られれば彼女には救いかもですね。
欲を言うと「中身」の彼女も見たかったような…?
その上で、このケースでは、人間ならではものが表現に必要だからこそ、人間であることを選んだのではないか、と。